駅前の喫茶店で、十数年ぶりに昔の友人と向かい合った。注文したコーヒーが届くまでの間、何を話せばいいのか少し迷った。学生時代なら、近況など聞かなくても笑えたはずなのに、今はお互いの家族構成も仕事も、詳しくは知らない。
それでも、友人が昔と同じようにストローの袋を細かく折っているのを見て、時間が一気に戻ったような気がした。懐かしさは、過去をそのまま取り戻すことではない。変わってしまった部分と、変わらず残っている部分を、同時に感じるものなのかもしれない。
久しぶりの会話がぎこちない理由
大人になってから昔の友人に会うと、会話が少し慎重になる。仕事のこと、夫婦のこと、子どものこと。どこまで聞いていいのか、どこから先は踏み込まないほうがいいのか、お互いに探りながら話すことになる。
若い頃は、相手の事情を深く考えずに「最近どう?」と聞けた。けれど、40代、50代になると、同じ言葉の奥にある疲れや事情まで想像してしまう。返事が短いからといって不機嫌とは限らないし、明るく話しているからといって何も悩みがないとも限らない。
この遠慮は、関係が薄くなった証拠とは限らない。長い年月を経て、相手を雑に扱わないための慎重さが生まれたとも言える。
「昔の自分」を知っている相手
昔の友人と話していると、今の肩書きから少し離れられる。職場での役職も、家庭での役割も、親としての立場も、いったん脇に置けるからだ。
友人が覚えていたのは、今の自分ではなく、失敗して笑われた自分や、夢中になっていた自分だった。「昔から、変なところで頑固だったよね」と言われ、否定したいのに思い当たる。現在の自分だけを見ていると気づきにくい性格を、過去のエピソードが教えてくれることがある。
ただし、昔の友人に会えば必ず心が軽くなるわけではない。かつての比較意識がよみがえったり、相手の暮らしを見て焦ったりすることもある。懐かしさと居心地の悪さが同居するのも、大人の再会らしさなのだろう。
関係は「元通り」にならなくていい
再会したあと、以前のように頻繁に連絡を取り合う人もいれば、その日を境にまた何年も会わない人もいる。どちらが正しいということではない。
一度会っただけで、互いの生活に深く入り直す必要はない。季節の変わり目に短いメッセージを送る関係でもいいし、年賀状だけでつながる関係でもいい。昔の親しさを、現在の距離に無理やり戻そうとすると、かえって苦しくなる。
大人になってからの友人関係には、会う回数よりも、会わない時間をどう受け止めるかという難しさがある。連絡が途切れても、縁が消えたとは限らない。互いに別の生活を持ちながら、記憶の片隅に残っている。それだけで続いている関係もある。
帰り道に残った小さな感覚
喫茶店を出たあと、友人から「今日は会えてよかった」と短いメッセージが届いた。こちらも同じ言葉を返したが、そこに特別な約束はなかった。
けれど、帰宅してから昔よく聴いていた曲を検索した。今の生活を変えたいわけではない。ただ、今の自分が、過去の自分と完全に別人ではないことを思い出したのだ。
昔の友人との再会は、失った時間を埋めるためだけのものではない。変化した自分を、以前から知っている誰かの目を通して見直す時間でもある。会ったあとに少し考え込むくらいの再会が、案外、長く心に残るのかもしれない。
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